ふるさと・生いたち

2017年4月28日 (金)

郷里の神社の春祭り

 Photo_24月3日、郷里の神社で春祭りがあり、妻とともに手伝いに帰りました。祭りでの私の役回りは白丁(はくちょう)。献幣使のお供です(写真)。箱を担いで神社の長い階段を登るのに苦労しました。素足に、脛を出した装束のため、寒かった。近所のおばさんがタイツを用意してくれていたので助かりました。

 

 祭りが終わると直会(なおらい)です。50世帯ほどの集落の子どもから年寄りまで一堂に会して(といっても平日だったので仕事で出席できない人もいましたが)、大宴会。「名古屋から来てくれた一登くんが一曲披露してくれます」とうながされて、カラオケを歌いました。

 

 郷里では、私の実家のように普段は空き家になっている家が増えています。ですから、3年に一度(以前は4年だった)は、故郷を離れている私たちも祭りの手伝いに帰っています。

2013年1月 3日 (木)

「年取り」

Photo山一つ越えると飛騨になる私の故郷では、大みそかに「年取り」といって、ごちそうを味わいながら、1年の労をねぎらう風習がある。子どものころは、箱膳に並んだその年一番のごちそうが食べられる「年取り」を楽しみにしていたものだ。

 

小学校に入学する前までは、父母、祖父母、曽祖父母に妹と、家族も大勢いた。その実家も、いまは父ひとり。ひとりで「年取り」を祝うのは寂しいだろうと、10数年ぶりに妻といっしょに大みそかに帰省した。「ブリを買ってきてくれ」と頼まれた。飛騨地方の「年取り」では出世魚の塩ブリが欠かせない。その他に、「年一番」のごちそうも携えて。

 

 元旦の朝は薄らと雪化粧。妹たちの家族も帰省し、久しぶりに実家もにぎやかになった。父も喜んでくれたと思う。

2012年8月23日 (木)

「緑のカーテン」ゴーヤを収穫

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 ベランダの「緑のカーテン」。小ぶりですが、ゴーヤが実りました。ゴーヤチャンプルーでわが家の食卓にのぼりました。妻が丹精込めて育てているので、ゴーヤはますます葉を茂らせ、物干し竿にもからみついています。どこまで伸びるのか・・。

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2012年8月15日 (水)

田んぼが大豆畑に

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 お盆は故郷に里帰り。久しぶりに兄妹3人の家族がそろい、80を過ぎても元気に一人で百姓をやっている父を囲んで団らんしました。
 

写真は実家の前の大豆畑。実は田んぼです。数年に1度は、米の生産調整のために大豆を植えるのです。米が作れるのに……。それでも農家の人たちはがんばっています。地産の大豆を原料に豆腐を作る会社を立ち上げ、〝佐見豆腐〟と銘打って売り出しています。国道41号線の道の駅「美濃白川」でも売っています。

2012年8月 4日 (土)

ゴーヤとブドウ

Photo ゴーヤのカーテンをすり抜けて、ここちよい風が部屋の中に入ってきます。団地自治会がURと連携してとりくんでいる「緑のカーテン」。ゴーヤは、かわいらしい実を付けました。

 わが家のベランダでは、鉢植えのブドウも実を付けました。めざとく見つけた鳥たちがやってきます。ベランダの緑を眺めていると、暑さもやわらぎます。ただし、洗濯物を干すときに苦労しますが。

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2012年7月11日 (水)

緑のカーテン

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 わが家のベランダで、ゴーヤを栽培して「緑のカーテン」づくりにとりくんでいます。ゴーヤの苗やネット、土、肥料など栽培キットは、都市再生機構(UR)が提供してくれました。URと団地自治会の連携事業として、「緑のカーテン」を推進しています。

 

ゴーヤを育てているのは妻。「緑のカーテン」は、室内への陽射しをやわらげ、省エネ効果があるので大賛成ですが、わが家のベランダは、写真のように、すでに草花でいっぱい。エアコンの室外機も鉢植えにじゃまされて、エアコンが回せません。これも節電かなあ。

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2012年5月 5日 (土)

父が植えた八重桜

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 故郷に帰省し、のんびりしてきました。ブログの更新もお休みしました。実家では、一人暮らししている父が、裏山で採れたタケノコの炊き込みご飯を作り、ワラビやウドなど山菜料理でもてなしてくれました。妻も父のために料理の腕をふるってくれました。
 

 実家に帰るたびに妻から言われるのは、「畑や山林をどうするの」。父は、80歳を過ぎても毎日、畑に出ていますが、一人では耕作できずに放棄されている畑も少なくありません。跡継ぎの私は、「あなたには百姓はできないわ」と妻から言われる始末。家庭菜園に精を出している妻の方が向いているかもしれません。普段は都会で暮らしていて、土・日には郷里に帰って田畑を守っている人も近所にいます。さて、私たちはどうするか。 

 写真は、父が植えた八重桜。きれに咲いていました。左手に写っているのは、私が学んだ小学校。廃校になりましたが、木造の講堂だけが残っています。

2012年1月 3日 (火)

生家

 正月は郷里の実家で1泊してきた。私の生まれ育った家は、築後100年以上経つ百姓家(写真)。増築した部分は床が相当きしんでいるが、建築当初からの田の字型の間取りの部分は、今でもしっかりしている。伝統的な日本の木造建築は、丈夫で長持ちするものだ。

 生家には“井戸”がある(写真)。井戸といっても、水源は地下水ではなく、裏山の湧水。枯れることがない。水道も引かれているが、コーヒーを入れる時は、湧水の方がおいしい。

 生家の縁側に腰掛けて、向かいの山をぼーっと眺めていると、心が安らぐ。

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2011年12月24日 (土)

『佐見なつか誌』

Photo_2  年末になると私のもとに『佐見なつか誌』というミニ新聞が送られてくる。今年も届いた。その表紙には、私が卒業した上佐見小学校(すでに廃校になっている)の校舎の一部が写った写真が載っていた(右の写真)。ページをめくると、佐見中学校で教えてもらった先生のなつかしい顔もあった。このミニ新聞の発行人は、同中学校OBの茶工場の主人。私の故郷は、白川茶が特産品で、私の父も細々だが茶畑を営んでいる。ミニコミ誌に同封して、お歳暮用のお茶のパンフレットも入っていた。お歳暮用のお茶を注文したことはないが、ミニ新聞は毎年、楽しみにしている。

 今年の『佐見なつか誌』に、次のようなコラムが載っていた。筆者は「佐見川ザッコ」さん。

 「……中学校では演劇部に入りました。演劇部にはこれといった伝統もなかったので、まずは演目から決めなくてはなりませんでした。先生の指導や保護者の協力で、最初の演目は、人形劇で『夫婦杉』を上演することに。人形劇とはいえ、十三、四歳の部員たちで、駆け落ちだ、心中だ、なんて話を題材にして、よくもまあ脚本を書いたものだ」

 覚えている。中学1年生のときだったか、私も演劇部に入って、故郷に伝わる「夫婦杉」という伝説を脚色して人形劇を演じたことを。

 佐見川ザッコさんは続ける。

 「そして次の年、今年は何を題材にしようかと部員全員で話し合っても何も出てこない。文化祭の日は迫りくる。と、そこに『僕が書いてきます』と一人の部員が登場。この部員、勉学もとても優秀。なんと一晩で脚本を書いてきました。タイトルは『上杉君と武田君』。内容はクラスでトップの座を取り合っこしている二人のライバルの物語。ある時、勉強に疲れた武田君が脱落し始める。それに気づいた上杉君がライバルでありながら武田君を励まし、また一緒に戦おうと説得する話を歴史上の人物に重ね合わせた作品だった。へえ、佐見中学校にもこんな話が書ける子がいるんだ。なんとまあ垢抜けた話が書けるもんやなあ、と感心することしきり」

 誰のことかな?「上杉君と武田君」なんていう劇をやったかな?

 「この子はひょっとしたら、小説家とか脚本家とかの先生になるかもしれないな、なんて思ったものです。が、彼はその後、名古屋市の市会議員になられたそうです」

 えっ!ボクのこと。こんなシリアスな脚本を書いた記憶はないがなあ。脚本は二、三日で書いたことはあるけれども、内容は境正章の当時のヒット曲をタイトルにしたコミカルなものだったが・・。「上杉君と武田君」の真相は定かではないが、「佐見川ザッコ」さんの記憶の中には、私のことが鮮明に残っているのでしょう。

 「インターネットで田口一登って検索をかけると、中学時代とちっとも変らない顔で登場します。久しぶり、一登君」

 ありがとう。「佐見川ザッコ」さん。

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