本日の市議会本会議で私は、「表現の不自由展・その後」にたいして河村市長が行った中止要請について質問しました。私はまず、「表現の自由」とのかかわりで市長に3点質問しました。市長の答弁の要旨と合わせて紹介します。
① 市長の行為は、憲法21条が保障する表現の自由を侵害するものではないのか。憲法21条は検閲を禁止しているが、市長が表現の内容に異議を唱えて展示の中止を求めるというのは、事実上の検閲にほかならないのではないか。⇒(市長答弁)(あいちトリエンナーレは)公共事業であり、公共性はチェックされるものなので、まったく検閲ではない。
② 市長の考えは、国や自治体が主催者の一員となった展覧会では、時の政権の立場に批判的な内容の展示はしてはならない。「政治的中立性」が担保された作品しか展示してはならないというのものか。⇒(市長答弁)政治的中立性は意識しなければならない。憲法15条では公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではないと定めている。
③ 多様な表現の機会を保障することこそ国や自治体の責務ではないか。芸術・文化への公的助成にあたって、国や自治体は〝金は出しても口は出さない〟という原則を守るべきではないか。⇒(市長答弁)口は極力出さない。今回は展示作品の内容が事前に隠されていたので、ちょっと待ってよと言ったのだ。
河村市長が問題にしている作品の一つが日本軍「慰安婦」を題材にした「平和の少女像」です。私は、「慰安婦」問題における歴史認識についても市長に問いました。河村市長は日本軍「慰安婦」問題の存在を認めようとしていませんが、これは、日本政府の公式の立場とも異なります。政府の見解は、1993年8月4日に出された河野洋平官房長官談話です。私は、軍の関与と強制性などを認定した「河野談話」の内容を示して、「『河野談話』が認定した事実を認めるか」と市長に問いましたが、市長は、衆議院議員時代に日本の国会議員がワシントン・ポストに出した強制連行を否定する全面広告に署名していると述べるにとどまり、政府見解への答弁を避けました。
再質問では、河村市長が「日本国民の心を踏みにじる」と感じた「平和の少女像」について、「少女像を見た少なくない人たちは、つらい人生を歩んできた被害者への共感を抱いたのではないか。市長は、少女像が見た人たちに与える多様な感じ方まで否定するのか」と質問。市長は見た人たちの多様な感じ方まで否定できませんでした。文化芸術基本法では「文化芸術は……人々の心のつながりや相互に理解し尊重しあう土壌を提供し、多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成するもの」と謳っています。トリエンナーレで展示された少女像も、れっきとした芸術作品です。
行政が表現活動の場所を提供し、お金も出して、表現の機会を保障してこそ、表現の自由が成り立ちます。私は、「『政治的中立性』を口実に、行政が表現の機会を保障しないということは、表現の自由の重要性を認識していないことになるのではないか」と追及しました。これにたいして市長は、「公共がやると慰安婦像にたいする国の主張を認めたことになる。そうでない人の表現の自由はどうなるのか。多様なことを大事にせないかんじゃないですか」と答弁しました。私は、「行政が認めたと誤解を与えるというのは、市長が日本軍『慰安婦』問題はなかったとする歴史修正主義の色眼鏡で見ているからではないか。芸術作品に対する評価は、見た人に判断してもらえばいいのです」と反論。「市長が行った中止要請は、表現の機会と見る権利を奪った、公権力による表現の自由の侵害だ」と厳しく指摘しておきました。